長崎南ロータリークラブ

ナガサキ・ホテル(右)と香港上海銀行長崎支店(現存)。明治末期の絵はがき。

絵葉書がささやく旧長崎居留地の歴史

vol.5

大英帝国は19世紀末に栄光の頂点に達した。カナダ横断鉄道の建設、スエズとパナマ運河の開通、さらには国際航路の開発と豪華客船の普及により、英国領だけで世界を一周することができるほどであった。当時の世界地図では英国の領土を赤く塗る習慣があったことから、この世界一周の道を「オール・レッド・ルート」と呼ばれるようになった。

長崎はもちろん英国領ではなかったが、香港とバンクバーを結ぶ航路の主要な寄港地で、オール・レッド・ルートの中に含まれていた。

英国商人フレデリック・リンガー(Frederick Ringer)は、国際貿易港長崎の繁栄を象徴する「東洋一壮大なホテル」の建設を計画した。明治31年(1898)9月1日、下り松海岸通り(現在の松が枝町)にオープンした「ナガサキ・ホテル」は、その当時、まさにアジアの一流ホテルであった。華やかな3階建ての煉瓦造りに客室50室、広いベランダから港を見下ろす最高級の部屋をはじめ、ダイニングルームでは、ゆうに125名を収容、フランス人料理長、日本初の全室電話完備、自家発電、冷蔵設備、輸入家具、ヨーロッパ製装飾器具を備えていた。

しかし、リンガーの期待とは程遠く、長崎の黄金時代は永くは続かなかった。日露戦争後、観光客も貿易額も急下降を辿り、ナガサキ・ホテルは開業からわずか10年の明治41年(1908)に閉店を余儀なくされた。ホテルは一時再建されたが、経営者の森荒吉は、大正13年(1924)11月に最終的な閉館を決意した。その後、竜紋氷室という製氷会社が土地を購入し、建物が解体された。

写真説明:ナガサキ・ホテル(右)と香港上海銀行長崎支店(現存)。明治末期の絵はがき。

写真/文章提供:ブライアン・バークガフニ氏
ブライアン・バークガフニ 氏
ブライアン・バークガフニ 氏
長崎総合科学大学 環境・建築学部 教授
グラバー園 名誉園長

1950年カナダ、ウィニペグ市に生まれる。1972年、ヨーロッパ、インド等を経て来日。

著書には『蝶々夫人を探して』(かもがわ出版、2000)、『庵』(グラフ社、1995)、『時の流れを超えて:長崎国際墓地に眠る人々』(長崎文献社、1993)、『花と霜:グラバー家の人々』(長崎文献社、1989)などがある。

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