
大浦外国人居留地の第一次造成工事が完了した文久元(1861)年頃、商業地区は広さにして6万平方メートルあり、31の区画に分けられ、そのうち1から11番地は「バンド」と呼ばれる海岸通りに面する一等地であった。これらの区画を借地する居留者のリストが前年10月10日に作成されたが、貿易業を営む人々には海岸通りの一等地を借りる特権が与えられ、酒場やホテル、雑貨店などを営業する居留者には裏側の区画が貸し出された。若年のトーマス・グラバーは、裏通りの大浦21番地の借地権をまず確保し、その後、海岸通り5番地に移転したのである。
インド英語の「バンダ―(堤防)」の派生語である「バンド」は、最初ボンベイで、その後カルカッタ、広東、香港、上海ほかアジア各地の都市で使われた。大英帝国の文化的・商業的影響下にある世界中の国々とつながるアジアの各港で、海岸通りが「バンド」と呼ばれるようになった。長崎外国人居留地の一等地である大浦バンド沿いの土地には、英、米、中国の領事館はじめ、ジャーディン・マセソン商会、ホーム・リンガー商会など著名な外国系商社や銀行がのきを連ねた。和洋折衷建築のこれらの建物は、国際貿易で果たした長崎の重要な役割を象徴していた。海のかなたからやってくる外国人にとって、大浦バンドは初めて踏む日本の地であり、名高い長崎が見せる最初の顔なのである。
写真説明:大浦バンドから長崎市街地方面を望む。右の建物は(手前から)源長両替交番、ホーム・リンガー商会、長崎英国領事館(現存)、長崎アメリカ領事館(大浦8~5番地)
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- ブライアン・バークガフニ 氏
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長崎総合科学大学 環境・建築学部 教授
グラバー園 名誉園長1950年カナダ、ウィニペグ市に生まれる。1972年、ヨーロッパ、インド等を経て来日。
著書には『蝶々夫人を探して』(かもがわ出版、2000)、『庵』(グラフ社、1995)、『時の流れを超えて:長崎国際墓地に眠る人々』(長崎文献社、1993)、『花と霜:グラバー家の人々』(長崎文献社、1989)などがある。