長崎南ロータリークラブは、「マクドナルド」「森山栄之助」の功績をただ称えるのではなく、顕彰碑を起点として、歴史を学び文化を守る尊さを子供たちに伝え、英語教育発展の指標となることを祈念致し活動することを目的として、「森山栄之助顕彰碑」を建立いたしました。
幕臣となる
安政元年(1854)に、日米和親条約が結ばれてから、浦賀や下田には異国船の入港が急激に増えました。森山栄之助は諸外国との条約締結のほとんどに関わるという、とんでもない修羅場に放り込まれるのでした。このころ栄之助は大通詞過人から幕臣となり、普請役30俵3人扶持を給されました。(この時多吉郎と改名したといわれています)
いよいよ開国への道筋が出来ていく中、安政3年(1856)米国総領事ハリスが下田に来航し、駐在します。栄之助は、下田条約、日米修好通商条約調印において通訳 兼 翻訳など条約文作成に関わりました。また、英語塾を開設し(塾生:津田仙、須藤時一郎、冨永市造、沼間慎一郎、福沢諭吉)その後1862年には遣欧使節団として、イギリス、オランダ、ドイツ、プロシア、ロシアと廻り、数々の交渉に当たりました。
その時、長年の功績により外国奉行通弁役頭取に任じられましたが、帰国後、攘夷派の襲撃を受け、身を隠すことを余儀なくされます。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、栄之助は前年開港されたばかりの兵庫の組頭に任じられていましたが、イギリス船に乗り江戸に逃れることとなりました。
多吉郎の死
その後、明治時代の森山多吉郎は、歴史の表舞台から忽然と姿を消します。
外交問題は政府にとって最大の課題であり、英語に精通し、多くの外交交渉に接してきた彼への期待は大きいものでしたが、新政府からの仕官への強い勧めに首を縦に振ることはありませんでした。
嘉永6年(1853)のペリー来航から幕府が倒れるまではわずか15年でしたが、彼は相次ぐ外交交渉に心身ともに疲弊していたのでした。
明治4年(1871)、森山多吉郎は横浜で急死します。51歳でした。
東京巣鴨の本妙寺に森山多吉郎のお墓があります

- 森山 栄之助(多吉郎)
文政36月1日(1820年7月10日)-明治4年3月15日(1871年5月4日) -
文政3年(1820年)長崎に生まれる。
幕末期の通詞。諱(いみな)は憲直、通称は栄之助、のち多吉郎。
家族からオランダ通詞としての必要な知識を受け継ぎ、アメリカ人ラナルド・マクドナルドから英語を学び、蘭・英2ヶ国語の通詞となる。
マシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、日米和親条約・日米修好通商条約締結の際にも通訳として立ち会った。
門下生に津田仙、福地源一郎、沼田守一などがおり、福沢諭吉も短期間ではあったが学んでいる。