長崎南ロータリークラブは、「マクドナルド」「森山栄之助」の功績をただ称えるのではなく、顕彰碑を起点として、歴史を学び文化を守る尊さを子供たちに伝え、英語教育発展の指標となることを祈念致し活動することを目的として、「森山栄之助顕彰碑」を建立いたしました。
通詞から外交官への道
日米交渉始まる
日米和親条約締結の交渉が2月10日から始まり、日本の首席全権である林大学頭がアメリカ大統領の親書に対する回答をまず行いました。首席通訳には栄之助があたり、補佐として堀辰之助がつきました。
断続的に行われた交渉はおよそ1ヶ月にわたり、3月3日 日米和親条約が締結、調印となりました。アメリカ艦隊はその後、3月21日に下田に向かって江戸湾を離れました。
この交渉において、アメリカ人は栄之助の働きを単なる通訳としては見ていなかったようです。というのも、栄之助が色々な場面で現れては「この点は合意している」「これは変更された」「この件は受け入れていない」とやたらに意義を挟んだので、条約の処理はすべて栄之助の手に委譲されているのかと受け取られたからでした。
(2013年11月27日 長崎南ロータリークラブ例会での江越 弘人氏の卓話より引用)
不平等条約か
日米和親条約や日米修好通商条約が不平等条約であるという事で、当時、条約締結に関わった幕臣達の評判は非常に悪く、彼らが歴史の舞台に出てこない理由となっています。
不平等であったことについては、ペリーやハリスたちの強圧的な恫喝に屈したという見方や、当時の世界の事情を知らなかったのではないかという見方もあります。しかし、見たこともない艦隊や大砲をみて屈服した清国と同じにはならなかった事、日本の独立を保つことが出来た事は、奇跡に等しいのではないかと考える事も出来ます。
【参考文献】「幕末の外交官」 江越 弘人著(弦書房)

- 森山 栄之助(多吉郎)
文政36月1日(1820年7月10日)-明治4年3月15日(1871年5月4日) -
文政3年(1820年)長崎に生まれる。
幕末期の通詞。諱(いみな)は憲直、通称は栄之助、のち多吉郎。
家族からオランダ通詞としての必要な知識を受け継ぎ、アメリカ人ラナルド・マクドナルドから英語を学び、蘭・英2ヶ国語の通詞となる。
マシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、日米和親条約・日米修好通商条約締結の際にも通訳として立ち会った。
門下生に津田仙、福地源一郎、沼田守一などがおり、福沢諭吉も短期間ではあったが学んでいる。