長崎南ロータリークラブは、「マクドナルド」「森山栄之助」の功績をただ称えるのではなく、顕彰碑を起点として、歴史を学び文化を守る尊さを子供たちに伝え、英語教育発展の指標となることを祈念致し活動することを目的として、「森山栄之助顕彰碑」を建立いたしました。
ペリー艦隊 浦賀に再び
日米間にはゴタゴタが続き、まず会談の場所をどこにするかが問題となっていました。日本は浦賀を主張し、ペリーは江戸での会談にこだわりました。結局、アメリカ艦隊が停泊している目の前の一寒村(現在の横浜)で行う事になりました。
その最中、栄之助は長崎から江戸に向かいます。当時34~35日かかるところを25日で戻り、2月5日にはサスケハナ号に姿を現したのです。
ペリー随行記
アメリカ側の首席通訳官であるウリアムズが残した「ペリー随行記」から、栄之助が外交交渉を取り仕切った様子をうかがい知ることが出来ます。
その本には『ほかの通訳がいらなくなるほど英語が達者で、お蔭で我々の交渉はおお助かりだ。森山はプレブル号の船長や乗組員の安否を尋ね「ロナルド・マクドナルドは元気だろうか、他に彼の事をご存知ないか」と質問した・・・ついには士官室での夕食に腰をおちつけてしまい、彼の教養の深さと育ちの良さが我々に好感を与えた』と記してあります。
(2013年11月27日 長崎南ロータリークラブ例会での江越 弘人氏の卓話より引用)
【参考文献】「幕末の外交官」 江越 弘人著(弦書房)

- 森山 栄之助(多吉郎)
文政36月1日(1820年7月10日)-明治4年3月15日(1871年5月4日) -
文政3年(1820年)長崎に生まれる。
幕末期の通詞。諱(いみな)は憲直、通称は栄之助、のち多吉郎。
家族からオランダ通詞としての必要な知識を受け継ぎ、アメリカ人ラナルド・マクドナルドから英語を学び、蘭・英2ヶ国語の通詞となる。
マシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、日米和親条約・日米修好通商条約締結の際にも通訳として立ち会った。
門下生に津田仙、福地源一郎、沼田守一などがおり、福沢諭吉も短期間ではあったが学んでいる。