長崎南ロータリークラブ

森山 栄之助を称えて

長崎南ロータリークラブは、「マクドナルド」「森山栄之助」の功績をただ称えるのではなく、顕彰碑を起点として、歴史を学び文化を守る尊さを子供たちに伝え、英語教育発展の指標となることを祈念致し活動することを目的として、「森山栄之助顕彰碑」を建立いたしました。

vol.5

通詞から外交官への道

嘉永2年(1849年)プレブル号はマクドナルドとラゴダ号の13名を乗せて、長崎港を出帆していきました。
虐待の噂、2名の船員の死等、一歩間違えれば大きな事件になりかねなかった事態をともかくも穏やかに収めることが出来たのは、ひとえに栄之助の巧みな通訳によるものでした。この一件で幕府の栄之助への信頼が一気に高まり、栄之助は、ここから怒涛のような世の中の動きに翻弄されていくのでした。

ペリーのアメリカ艦隊 浦賀沖に

嘉永6年(1853年)4隻のアメリカ東インド艦隊が、浦賀沖に停泊。アメリカ側の通訳官ポートマンと浦賀詰通詞の堀達之助がオランダ語で交渉に臨みました。ペリーは浦賀奉行に国書を渡し、再度回答を受け取りに再び来航すると言って日本を離れました。ペリー艦隊を前にオランダ語での交渉に不安を覚えた幕府は、長崎の通詞の西吉兵衛と栄之助を江戸に呼びましたが、2人が江戸に着いた時、ペリーの艦隊は日本を去っていたあとでした。

プチャーチンのロシア艦隊 長崎に

2人が江戸に着くと、それを追いかけるように今度は長崎から早飛脚が到着しました。ロシアの軍艦4隻が長崎に入港したとの知らせでした。急ぎ長崎に戻った2人の通詞は、開国をせまるロシアとの厳しい交渉の場面に携わるのでした。この日露会談において最も重要な働きをしたのは、幕府の副全権の川路佐衛門尉聖謨の巧みな交渉術と、栄之助の正確な通訳の力でした。この働きにより栄之助は大通詞となります。
そして、ペリー再来航の知らせを受けると、再び江戸に向かったのでした。

【参考文献】「幕末の外交官 森山栄之助」 江越弘人著(弦書房)

森山 栄之助(多吉郎)
森山 栄之助(多吉郎)
文政36月1日(1820年7月10日)-明治4年3月15日(1871年5月4日)

文政3年(1820年)長崎に生まれる。

幕末期の通詞。諱(いみな)は憲直、通称は栄之助、のち多吉郎。

家族からオランダ通詞としての必要な知識を受け継ぎ、アメリカ人ラナルド・マクドナルドから英語を学び、蘭・英2ヶ国語の通詞となる。

マシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、日米和親条約・日米修好通商条約締結の際にも通訳として立ち会った。

門下生に津田仙、福地源一郎、沼田守一などがおり、福沢諭吉も短期間ではあったが学んでいる。

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