長崎南ロータリークラブは、「マクドナルド」「森山栄之助」の功績をただ称えるのではなく、顕彰碑を起点として、歴史を学び文化を守る尊さを子供たちに伝え、英語教育発展の指標となることを祈念致し活動することを目的として、「森山栄之助顕彰碑」を建立いたしました。
森山栄之助はどんな人?
幕末の日本周囲は英米船の来航が激しく、まさに対外危機にさらされる中、一人のオランダ通詞がずばぬけた語学力で日本の危機に対処しました。その人こそ「通訳を越えた外交官」として活躍した「森山栄之助」でした。
森山栄之助(のちに多吉郎)は、文政3年(1820年])長崎馬町にオランダ通詞の家に生まれ、小さいころからオランダ語に親しみ、「翻訳する事、手紙を書く如し」といわれていました。
「英語を学びたい」と思った背景
フェートン号事件
文化5年(1808年)当時オランダと敵対していた英仏が日本へやってきました。彼らは出島のオランダ人を人質にとり、食料と水を要求。長崎を警備する佐賀藩の藩主は言われるままに提供しなければなりませんでしたが、逼塞を科されてしまい、警備を怠った責任者と長崎奉行松平康英も切腹という事件となりました。この時日本には正確に英語を解する人が一人もいなかったため、英船フェートン号に立ち向かう事が出来なかったのです。
そこでオランダ通詞たちに、専門のオランダ語以外に英仏語習得を急務とする命が下ります。しかし、この時オランダ通詞にとって英仏語習得は、困難を極める事でした。早速出島のオランダ商館長次席のブロムホフが教師になりましたが、彼は英語が母国語ではなかったため、オランダ語の訛りがあったと言われています。
通詞たちは、「何とか英語自習の勉強ができぬものか」と考えましたが、つまり師となる者がいなかったのです。

- 森山 栄之助(多吉郎)
文政36月1日(1820年7月10日)-明治4年3月15日(1871年5月4日) -
文政3年(1820年)長崎に生まれる。
幕末期の通詞。諱(いみな)は憲直、通称は栄之助、のち多吉郎。
家族からオランダ通詞としての必要な知識を受け継ぎ、アメリカ人ラナルド・マクドナルドから英語を学び、蘭・英2ヶ国語の通詞となる。
マシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、日米和親条約・日米修好通商条約締結の際にも通訳として立ち会った。
門下生に津田仙、福地源一郎、沼田守一などがおり、福沢諭吉も短期間ではあったが学んでいる。